2016年の1月で岩沼に住み始めてから4年が経過する。当初はMSR+のボランティア活動をどうこなせるか、その地域で何ができるのか、そんなことを考えながら生活が始まった。
この場所で得た関係の多くはMSR+がきっかけで始まった関係だったが、やがていくつかの関係は小寺義という個人の関係となり、MSR+として目指すべき事柄が小寺義のしたいことへと変わっていった。
そうなると、この場所で恒久的に生活ができればという願いがおこり、ここで生活の基盤を築くための方法を求めた。そしてその結果、岩沼市役所の職員として来年度から働けるという道が開かれた。
震災がなければ今ある形は得られなかったわけだが、その震災と関われるようになったことに繋がるきっかけがあった。それは僕の大学卒業が半年間延びたことだ。 ある方はそこからMSR+に続くことを「一粒の麦の例え」とおっしゃったこともあった。
ある人が心配で見放せず時間を割いてしまったことで卒業が延びたのだが、最大の原因は時間に余裕があると考えて、のんびりし過ぎた自分の責任である。卒業後はJICAの青年海外協力隊で海外に行くことになっていた。その卒業が延びたことで派遣が取り止めとなり、JICAに迷惑をかけることになってしまった。しかし、それがなかったら震災に関わることもなかったし、今の僕は無かっただろう。
正直、卒業が伸びたことや派遣が取り止めとなったことをあまりショックに感じることは無かった。心残りがあったし、ある青年が日本から離れない事に「主よ感謝します」と言ったように周りも悲観的ではなかったから。
そもそも、卒業が延びると告げられてから二ヶ月後には震災が起きたため、ショックを実感する余裕が自分自身も周りの方々にも無かったのかもしれない。
改めて振り返ると物語のように導かれてきたことを感じるが、主がしてくださったのは主が僕自身を愛していると教えてくださった、ただそのことだけだった。そのことを教えてくださっただけなのに、副次的にここまで道を開いてくださるとは、大切にされているのだと改めて想わされ、どんなに感謝しても感謝し尽くすことは到底できない。
ある人が主のなされる事がらを「手のひらの上で転がされているみたいだ」と例えたことがあった。的確だが皮肉のようにも思える表現で面白おかしく感じてしまった。手のひらの内にあることは事実だけれど、その実情は温かく包みこみ守ってくださっているだけなのに。その方のことを不貞腐れた子どもを見守るように主は包んで下さっているのかと想像すると、和やかに思わされる。昔の僕もそうだったのかなぁ、と。
僕自身の歩みは、反抗的で不従順で懐疑的で不信仰なものだった。けれども、主から目を逸らしたことはなかった。与えられた自分の名前の意味を忘れることはできなかった。彼の示した道を避けて歩んだが、ことあるごとに元の道へと引き戻してくださった。根本的な部分はあまり昔と変わっていないが、教えられた愛を自分の中だけに留めておくことはできないだろう。これから先、与えられる事にはこれまであった以上のものが用意されている。同様に僕もそれを遣わされる地で与えるものであるようにと願い続ける。
多くの祈りがあり、今があること。祈られる祈りが現状の道と異なること、主が僕を想う様に多くの方々がMSR+の活動と僕の歩みを支えてくださったことを知っている。
全ての祈りが叶えられることは難しい、と人は思う。矛盾が生じる場合もあるし、理性的にあり得ない事柄もあるだろうから。しかし、主は人の想像をはるかに超えられる。これからの歩みが今思い描く道をどれほど凌駕するのか、そう楽しみつつ生きていこう。