隠れキリシタン

この塚の前で短い礼拝の時を持った
この塚の前で短い礼拝の時を持った

東北地区は隠れキリシタンの地として知られている。伊達政宗がキリシタンを大切に扱い、また幕府の命を受けても弾圧に踏み切るのが遅かったことなどがその理由かもしれない。

岩沼の市街にある日本基督教団の教会では、そのようなキリシタンの東北の歴史を学んでいて、そのなかの有志で実際にその地へ行ってみようという声が挙がった。それに同行するチャンスが与えられ僕も一緒にキリシタン殉教の地へと足を運んだ。

宮城と岩手の県境に位置する米川に三経塚と呼ばれる場所がある。今回の主な目的地でもあるその場所は、キリシタン弾圧が行われ、120人もの命がその地で落とされた土地として知られている。ただそれだけならば、東北で行われた弾圧の中で命を落とした集落のひとつと見ることもできるが、他の弾圧された集落と異なる点がある。その出来事が起きたのは1720年頃のことで、東北の地で弾圧が始まった時から100年もの月日が流れていたからだ。


そのきっかけは密告だったと言われている。寺請制度などの制度によりキリシタンが表に出られない世の中だった。彼等が隠れた存在だったのか、寺から守られていたのか、どのような状況であったのかは定かではないが、その密告を受けて調査に赴いた者達に踏み絵のような手段で、キリシタンか、と問われたことだろう。そして、120人もの方々がその信仰を隠さなかった。


加えるならば、その塚の事実は戦後まで隠されていた。ひっそりとその塚を守ってこられた家の方が、その地を離れて家を空ける際に、これまでその塚を守ってきたことを告げ、ようやく表に出たという。

キリシタンの弾圧は見せしめとして晒されるのが通常だが、この地で行われた弾圧はそのような側面は無く、むしろ聖書の教える復活を恐れて経文と共に三ヶ所に分けて埋葬されたと言われている。


命をかけて信仰を貫く姿に何とも言えぬ想いを抱いた。今の世にそれ程の信仰を貫ける者がどれほどいるのだろうか、と。平安の世の中で生きる者が彼等の信仰を羨んで良いのか、彼等が信仰を自由に言い表せるこちらの境遇を羨むのか、些細な疑問が幾つも浮かんできた。当然その問いに答えは出なかった。

今年も田は黄金色の絨毯が敷き詰められた。
今年も田は黄金色の絨毯が敷き詰められた。

そのような出来事があった米川の地だが、戦後にその殉教を知った方々がカトリックの布教に訪れ、その布教の1年後には300人を超える者が洗礼を受けた。その当時に洗礼を受けた方から話を伺うと、その三経塚の信仰がその業を為したのだ、と語ってくださった。

その殉教があったから米川の地に教会が建ち、そこで救われる者が起こされた、そうおっしゃっていた。その地に120粒の麦の種が蒔かれ、それが実り、借り入れる者が表れてその収穫を喜んだ、ただそう思わされるだけだった。


稲の刈り取り時期が終わった。その実りを見て考える。自分は種を蒔く者なのか、刈り取る者なのか、それともまた別な役割があるのだろうか。その時にならないと分からないだろうが、ただ求めるは揺るがない信仰、それを願い日々の生活を大切に守っていきたい.。