祈り 7月礼拝レポート 

安先生の説教の様子
安先生の説教の様子。言葉と体で熱く語られる。

7月になり夏を感じさせるような暑さとなってきた。それでも、東京などの関東と比べたらまだまだ涼しいのだろう。夏の日差しをセンター横の田んぼの稲はぐんぐん成長している。


7月第二聖日の岩沼チャペルの礼拝は、安重植先生を招いて行われた。

安先生は韓国より来られている宣教師で、震災以前から仙台の地で伝道に励まれておられる。


今は塩釜に導かれ、新たな地で継続して働いているとのことだ。東北のWH教団とは、東北ケズィックなどで共に主の恵みを分かち合っている。

その方の説教は激しく、その口から熱く語られたのは、ひたすら祈り求めよ、ということだった。引用した箇所はヨハネによる福音書14章12~14節であり、説教の内容はこの御言葉に尽きる、と言えよう。

安先生は、求めることは何でも主に祈れ、そのようなことを何度も口にされた。


その祈りについて語られた中で、ふたつのことが特に心に留まった。ひとつ目は全てを知っておられる主に祈ること。神様は祈る前から必要なことを知っておられる。何故なら、あなたの耳を造った方がその耳から全てを聞き、あなたの目を造った方がその目から全てを見て、あなたの感じる全てのことを創造主も感じておられるのだから。ただ、そのことを主に祈る必要がある。子の想いを知る親が、その口からその想いが語られるのを待つように。


そして、ふたつ目は主に用いられるようにと具体的に祈ること。聖書には右の手の行いを左の手に知られないようにしなさい、という記述がある。この場合は善行を知られないようにという例えだが、手に人格があると捉えることもできる。ならば、手足の人格ひとつひとつを主に用いてくださるようにと祈ることも不自然ではない。手が何を紡ぐのか、足がどこへ行くのか、目が何を見るのか、口が何を語るのか、と主に願い求めることを安先生は教えてくださった。自分の想いではなく、主の想いのままに腕や口が用いられますように。


からし種程の信仰があれば、願うことは何でも叶う、と聖書の中にはある。僕は、大半のクリスチャンはからし種よりも大きい信仰を持っていると考えている。事実、多くの方々の祈りは、その祈りのとおりに叶えられている。


ただ、人によっては願いが弱いものとなっているのではないか、と感じている。祈る時は具体的であるべきだが、祈りの中でそれが現実的に可能であるか、というところまで考えてしまうと、その範囲の願いしか主に求めることができない。そして、その祈りの通りになるのだろう。同様に、実現できないのではないか、と疑いを孕んだものであるならば、その疑ったとおりになる。これもある意味で信仰のとおりに実現していると言えるだろう。少なくとも、僕の弱い心は、確信が持てない物事に対してこのような祈りとなっている。


安先生は説教の終わりに、神を第一にするとは朝起きた時に布団から出る前に主を覚え、新聞や携帯を見る前に聖書を読み、仕事や勉強をする前に主に祈ることだ、とおっしゃっていた。


常に主と共にある生活を送ること、これを超えるような主の目に叶う生活を送るのは難しいだろう。その信仰を見習い、何事も祈ることから始め、ひとつひとつを主の御心のままに、と委ねていきたい。