家紋    5月号

漁師の家紋。糸輪に三つ干し網。
漁師の家紋。糸輪に三つ干し網。

水稲の種蒔きと田植えの時期は、センターがある地区の区長の農作業を手伝っている。毎年活動を支えてくださっている方々に贈る米は、この区長の水田で作ったものである。

先日も田植えの作業を朝から夕方頃まで共に働き、食事の時も共にした。話しが弾み、特に夕食時はその後の作業もないため、話す時間は長く、話題は幅広くなっていった。

話題の中に、その土地の歴史に関するものがあった。

区長の家は区長の代で12代目だと言う。子どもを授かる年が25歳だとして、およそ300年を超える歴史をその土地に刻んでいることになる。その期間に代々続く『菅井家』の家紋を得ているのだろうが、以前から家紋のルーツが気になっている。

宮城で『菅井』という性を持つ家紋の幾つかは、漁師の系譜が多いようで、網を模した家紋を得ている。区長も調べている中でその網の家紋を知り、自身の家の家紋と似ており、祖先は漁師をしていたのだろうと考えているようだった。

区長宅の家紋。上の家紋と明らかに異なる。
区長宅の家紋。上の家紋と明らかに異なる。

しかし、クリスチャンという視点から見ると、その家紋はゴルゴダの3本の十字架にしか見えなかった。そのようなズレを感じると、その菅井家の歴史の中で、家紋をいじった方がいるのではないかと考えてしまう。今生きている地域の宣教の歴史を知りたい、と思わされた

東北は伊達政宗の時代にキリシタン大名が数多くいた。それは、伊達政宗が彼らの能力を評価し、家臣として起用したのでそのようになった。特に、後藤寿庵というキリシタン大名は重宝され、キリシタン迫害の際には伊達政宗は数多くの恩寵をかけた。それでも己の信念を貫いた後藤寿案に対し、幕府の命を実行せざるを得なくなるのだが、ある説では殺害したと見せかけて逃がしたというものもある。そのような背景があるためか、東北には隠れキリシタンの痕跡が所々で見つかっている。

東北のキリスト教の起源がこのようなものであることは分かったのだが、岩沼の歴史に関しては明治以降の一部についてしか分からず、中心部から離れた沿岸部はこれといった情報は得られなかった。

ただ、地域の状況から得た個人的な見解を述べるとするなら、明治から戦後の50年代あたりに伝道や宣教が行われたのだと考えている。まず、市内にある教会の活動の始まりが明治であり、その痕跡として当時建てられた教会は歴史あるものとして今も残されている。

このような教会が形を遺して今もあるのは、この市内における活動だけで、東部の沿岸部にはない。しかし、東部には、聖書配布教会の看板が所々にあったり、あるおばあさんが賛美歌や劇を教わったことを語ってくれたり、この地で伝道を試みた誰かがいたことが見える。


その信仰は継承されることなく途絶えてしまったのだろうが、祈りと福音が蒔かれた地に自分がいる。そのことの意味を考え、主に求めていきたい。