MSR+の活動中の雑談の話題は、教会関係のものが多い。というのも、関係者に牧師が多いのだから、それも自然で当然とも言える。僕は聞く立場になる場合が多いが、今後を考えさせられることも多い。
その考えさせられたもののひとつに「教会が担うべき立場」というのがあった。
教会というのは建物ができ、そこに伝道者が属すれば教会としての役割を満たせるのではなく、地域や社会に貢献し、その一部となってからが初めて教会としての役割を満たせるようになる。
建物が備えられ、その場で伝道を始める状態というのは、教会を形成する一歩目を踏み出したに過ぎず、過程でしかない。それぞれの地域や社会には求められるものがあり、教会はそこに属するものとして地域や社会の必要に応えていかなければならない。それが教会としての在り方であり、伝道の形でもある。
また、教会に属する牧師がカリスマ性を持ち、個人でその地域や教会においてリーダーシップを発揮するよりも、その牧師が属する教会を中心としてリーダーシップを発揮する方が望ましい。なぜなら、教会の価値はその集合体として発揮される。体が頭だけでは何もできないように、体には多くのパーツが必要とされている。
と、このような牧師の方々の経験を耳に入れ、教会形成や伝道について新たな面で考えさせられた。ボランティアセンターを岩沼チャペルとして活動もしているため、自身に関係が薄いわけでもなく、将来はどのような形へ目指すべきか問われた。
MSR+のボランティアセンターは借家をそのまま使っているため、「家の教会」という方が適切かもしれない。そういう意味でも建物の中を教会として捉えるのではなく、地域の中で教会となる集合体を形成していきたいと願っている。そのためには何ができるか。下手な考えでは色々と思い付くが、それを実行に移そうと思うと難しく、また躊躇いも覚えてしまう。
だが、それと同時に確信を与えられる時もある。これをやりたいと思い、実際に形となっていっているものもある。「地の塩、世の光」、その言葉を表す者として、地域の中に属するキリスト者として為すべきものを為していきたい。伝道には福音を告げ知らせることも大切だが、主の愛を具体的に示すには自身の日頃の行いが重要だと考えている。善きサマリア人の例え話の彼のように日毎の行いに自然と愛が現れるよう努めたい。
MSR+のボランティアセンターは借家をそのまま使っているため、「家の教会」という方が適切かもしれない。そういう意味でも建物の中を教会として捉えるのではなく、地域の中で教会となる集合体を形成していきたいと願っている。そのためには何ができるか。下手な考えでは色々と思い付くが、それを実行に移そうと思うと難しく、また躊躇いも覚えてしまう。だが、それと同時に確信を与えられる時もある。これをやりたいと思い、実際に形となっていっているものもある。「地の塩、世の光」、その言葉を表す者として、地域の中に属するキリスト者として為すべきものを為していきたい。伝道には福音を告げ知らせることも大切だが、主の愛を具体的に示すには自身の日頃の行いが重要だと考えている。善きサマリア人の例え話の彼のように日毎の行いに自然と愛が現れるよう努めたい。