10月の末にボランティアの現状を報告する機会があり、「どう言葉に表そうか」と、これまで過ごしてきた時間を振り返りながら、その時々のことを思い巡らしていた。自身の想いを再確認する意味でも地域の人と話しをしていると、ふとある言葉が心に留まった。それは「ふるさと」という言葉だった。「ふるさと」という言葉が持つ意味は、与えられた立場により異なることに気付いたのだ。それは「ふるさと」が残った者と失われた者。
「ふるさと」が残った者は家が浸水したり半壊したりしてもそのまま同じ場所に住むことができる。一方、「ふるさと」が失われた者は元と住んでいた場所に住もうにも家を建てることができず、元の場所に戻ることができない。同じ市内に住んでいたとしてもこの両者の溝は深く幅広い。
震災直後からその両者の扱いには幾つも問題が挙がっていた。残った者は壊れた自宅に戻り、失った者は仮設住宅で過ごす、主にこの違いによりそれらは生じていた。
例えば、家屋の半壊と全壊では給付金の額が大きく異なり、半壊の家を修復するのに少なくない負担を強いられた。人によっては、いっそ流されてしまった方が良かった、とも感じている。また、支援物資の多くは仮設にしか届いていなかった。仮設住宅には物資が溢れていたのに、自宅に戻った人は箸の一本も貰えなかった。そう苦言を漏らす人もいた。
「ふるさと」のあり方も扱いの違いが見られる。沿岸部の家が建てられなくなった土地の多くは買い上げられた。失われた者は文字通り「ふるさと」を失った。ただ、その代価として金銭を得た。世帯により差はあるが安くはない額で土地は買い取られた。そのような状況を羨んで妬みを表す言葉が所々で聞こえるそうだ。
しかし、将来を見据えると、それらの境遇の差は羨む対象として捉えるべきでないことが分かるだろう。「ふるさと」が失われた者は土地を手放し、住みかを新たな場所に設けることになる。そして、仮設住宅から離れ、復興が落ち着いた時に、彼等が想うことは果たして何だろうか。
彼等は難民のように行く先も知らず、生まれ故郷に戻ることもできない。代価を得たとして、失くしたものをそれで満たすことができるのだろうか。何十年と過ごした景色や関係性を失い、見知らぬ土地となる。このような「ふるさと」の関係性を言葉で例えるとするとこうなるだろう。“わたしはあなたを知らない”と。
これまで当たり前だったものを失う悲しみは失った者にしか分からず、それを計り知ることはできない。
岩沼市の沿岸部には「千年希望の丘」が造られている。松島の島々が津波を弱めたように、津波が来た際にその威力を弱める役割を担うものとして考えられたものだ。
その場所には以前に人が住んでいた土地もある。津波の被害を受けた家屋の跡地をそのまま残しているものもある。そこに住んでいた人達の「ふるさと」は既に変わってしまった。
戻ることもできない「ふるさと」に対して彼等は何を想うのだろうか。