7月の最終木曜日が空いていなかったため、三浦綾子読書会は8月の第一週目の木曜日に開かれた。3回目を迎えたその場には、ただ二人しか参加しなかった。
そのうちの一人は、綾子さんの作品が好きで何度も参加されている方で、「わざわざ山形から来る方がいるのに参加しないのは申し訳ない」と足を運んでくださった。その方曰く、人前で本を読むという行為が人によってはどうにも受け入れられないようだ。ややきつめに「読み合う場には来ない」と伝えてくださったのだからその通りなのだろう。
読書会では回して読む際、読みたくない人は飛ばしても構わないと伝えてはいるが、郷に入っては郷に従えとでも言うべきか、その場は読まなければならない場であると感じているようで、読まない人は居心地悪くなるようだった。その背景には、農村という地域柄なのだと思うが、状況や立場などといった日常の全てにおいて等しくなければならないという価値観があるのだと感じた。過去に存在した五人組制度の名残りの様なものなのだと思う。本を読むのも恥ずかしく、その場にいるだけでは心地悪い、と読み合うよりも単に話を聞くだけの場の方が参加しやすいとアドバイスをくださった。
このような言葉を伝えてくださる方と関われていることは何よりも嬉しく思った。
二人の内のもう一人は小学6年生の男の子だった。その友達も読書会の場に時折顔を出すなどして席についている時間は短かったが、騒がしくしているのを怒られたら掃除をするという面白い思考を持った少年だった。読み終わった後に持つお茶の時間の食べ物を目当てに来たようで、友達の一緒に十分に堪能して帰って行った。その後、不思議と遊びの場に出くわし、そのまま夕方近くまで一緒に遊ぶ機会が得られた。「次はいつ来るの?」と聞かれ、遊びの関係はこの日だけでなく、今後も続いていくのだろう。今回、少年達から感じたのは、心意気は悪くないのだが人からよく見られたい悪ガキ、だということだ。震災に遭い、その地域に残る彼等の成長と訓練に携われるようにと切に願う。
読書会は、形を変えねばならない。三浦綾子という人物の生き方に触れてもらうために。幸いにも、9月の第一土曜日に読書会の先駆者でもある森下辰衛先生が講演会という形式で岩沼に来てくださる。それをきっかけとして、多くの人に彼女の言葉を届ける場へと変えていきたい。移転先の集合住宅は来年度完成予定だが、個々で建てる家々は完成しつつある。農村に住まう者と都会に住まう者との価値観は180度違う様なものだが、分かり合えない事はない。移転後も続けられる強い関係を築ていきたい。大げさな話し、平和というものは敵を愛するが如く相手のことを理解するところから始まるのだと思う。
“平和を実現する人々は、幸いである”