MSR+ #01 岩沼より現地報告メール

《復興委員会委員長 小寺 隆師の報告メールより転載》

 

岩沼から・MSR+#2:第1日(2011/6/19)

 宮城南部復興支援ボランティア活動を明日から始めます。

山形から 岡先生、川上さん、塩釜から 平島先生(19日と22日)、千葉から 小寺隆
玉川キリスト中央教会から 池田紀江さん、佐野塁生さん、北本福音キリスト教会から 小西直也先生
それからクラッシュジャパンから3名が加わります。

岩沼の南の亘理町での活動になります。気仙沼の阿部さんの親戚の方が中心となって
EM散布の希望者の募ってくださいました。
 
前回に続いて岡先生、川上さん、わたしが参加しました。最初の活動で試行錯誤の状態なので、明日実際の活動して修正すべきことなどいろいろな課題があると思います。しかし、季節がら悪臭のためにEM散布の希望者の方からの電話があります。
 EMについてはいろいろな意見がありますが、悪臭対策について一定の評価がなされています。どう程度の効果を発揮できるか未知数ですが、どうぞお祈りください。
 
それから教団のいくつかの教会から、ものが届けられています。
 厚別から、食器・調理器、三島西から毛布・タオルケットが届きました。
 前回は習志野から食器・調理器を頂きました。感謝します。
                         小寺隆

 

岩沼から・MSR+#2:第2日(2011/6/20)

宮城復興支援ボランティアセンターから  MSR+No.2 20日の報告


朝クラッシュジャパンから3名の参加者と合流し、亘理町へ。
3名の方はいずれも外国からボランティアに来た方たちです。オーストラリア1名、亜米利加2名です。
9名で亘理町の高屋小学校の周辺にEMを散布しました。合計28軒そのうち7軒は和室の畳をあげ、床下にEMを散布しました。少し出遅れ、夕方の6時に最後の家の散布を終えました。

その途中に、「高屋小学校の側溝に散布してほしい」「 岩沼の遺体安置所の体育館に散布してほしい」などと依頼がありましたが、予定があり調整しながら散布の予定を立ててくれます。
調整は川上さんが担当しています。

明日は55軒のEM散布があります。
今日散布している家の方と話すことが多く、皆さん津波の時、それからのことを話してくださいます。今回は床下、床上10~20センチの津波の被害地域です。それ以上になると床や壁の修繕が必要となり、これまでに手を入れていますが、床下程度の状態では、多くの場合、ないもしない、何もできない状況で、ただ臭いを我慢するだけしかなかったとのことでした。それで臭いを消すというEM散布を喜んでくださいました。

明日のためにお祈りください。            小寺隆他5名

 

岩沼から・MSR+#2を終えて(2011/6/22) 

 

皆様へ
宮崎南部復興支援ボランティアの第一回の三日間の活動が無事終わりました。
皆様のお祈りを感謝申し上げます。

第一日から多くの依頼があり、忙しく作業を終えました。今回のボランティアでEMを散布しました。その目的は有用微生物による、悪臭の除去です。

被災された方の場合、汚泥や瓦礫を撤去した後、消石灰で強アルカリです。土壌の消毒が目的です。しかし、時間とともにその働きが消えれば、もとの汚泥や瓦礫から臭いが出てきます。そしてまた消石灰を撒く…多いところで月2回消石灰を定期的に。
  
日常の生活でライフラインの確保が大切ですが、しかし生活が落ち着くには、居住する周囲の環境も重要です。
今回わかったことは、水田に水が入っていません。その理由は用水のためのポンプがほとんど全て壊れてたことにあります。そのために用水路に水が全く流れていません。それと用水路そのものも津波で瓦礫で埋まり、水を流すことができません。排水路は家の周囲は流れてもその先は手つかずになっています。つまり、下水道のない地域ですから、被災した家で生活を始めれば生活水を排水することになります。それが家の近くで溜まります。今は周辺の水田がそのたまり場になっていますが、そこから蚊はハエが…。
宮城南部は水田の広がる地域ですが、海からおよそ5Kmの間に水田があり、仙台市の南の名取市、岩沼市、亘理町、山元町と津波で被災しました。果てしなく続くように思えます。
 
今回の活動を始めるまで、三日間活動できるのか最初の日だけで終わってしまうのではと思いました。

ひとりの信徒の方が自分の家の周囲、友達へチラシを配布し、そのことで亘理町の高屋小学校の学区域に散布し、次回も継続して行うことになりました。
 
それと散布することでそれぞれの家庭の物語を伺うことができました。

津波の当日どうしていたか、どのように避難したか、その後どうしたかなどを散布しながら、時にタンクの水を補充する時に伺いました。

必死になって逃げたこと、家に戻って家族でボランティアの方たちによって、ガレキや汚泥を除去したこと、しかし、生活を始めての臭いや蚊・ハエの問題などなど、数字でしか知らなかった被災地の状況が一人ひとりの今までの100日間の現実があることを感じました。

 

三日間の最後伺った家は昼の食事の惣菜を買いにいったコンビニで、食事をさせていただいた中で自分たちが何をしているのかをお伝えしたところ、それなら自分の家も見て欲しいということになり、最後の仕事になりました。そして終わる時に知り合いの家もお願いしたいということになりましたが、四時過ぎていたので、それは次回の働きでということに…
そのコンビニの方は地震の際にお店の品物も落ちて壊れ後片付けをしていたら外を津波が来ると叫びながら走っていくバイクの声を聞いて外に出来たときには、南から津波が押し寄せて来て、津波に流ないように金網に掴まりながら、隣の駅のトイレの屋根に逃れたとのことでした。駅員の方と5人おられたとのこと、しかし津波から1週間後に店を開けてみんなのために食べるものを用意したと話してくれました。

 

そこは山元町との境で常磐線の浜吉田駅の隣のコンビニです。

亘理駅から南の常磐線は海に近いために今後の見通しが立っていません。復旧するのか、廃線して、海より内陸に新しい線路を敷設するのかも決まっていないとのことでした。

 

 

参加者6名のそれぞれの思いがそれぞれの関わりの中で広がっていきますように…
皆様のお祈りを心から感謝します。
                                       小寺隆