《f二俣キリスト教会 湯沢 鈴世師》
2011年4月25日~29日 神学院生4名、教師、諸教会の兄弟姉妹合計22名は アガペーCGN 第5次救援隊として、宮城チーム 10名、岩手チーム 12名に分かれ出発した。
以下は宮城チームの報告。
4月25日(月)
東京から出発する人達は淀橋教会に集合、7:30 峯野龍弘師に祈っていただき出発。
宮城チームは中村和司師運転のボクシー、高橋浩美姉運転のノアに 分乗。
9:00 佐野サービスエリア →矢板 →黒磯 →
10:00 福島(西郷村)→白河中央 →矢吹、鐘石、須賀川、安積、郡山南、会津、→
11:00 安達太良サービスエリア →福島西、国見、→宮城県 白石、村田、泉、→
13:00 塩釜。キリスト塩釜ともしびチャペル到着、
13:20~ 打ち合わせ。
14:00 塩釜聖書バプテスト教会・物資をいただく(缶詰等食品他)~多賀城市、仙台市を見る。
街の道路脇は瓦礫、店舗など1階部分は水に浸かり閉まっている。タンクローリーが店舗に突っ込んでいるのがそのままの状態で残っている。
仙台市泉区・広い建物の中に、JEAと日本国際飢餓対策機構、ビリーグラハム師関係のサマリタンパースが提供している物資置き場へ行き、米、鍋・食器セット、洗面用具セット、水なしシャンプー、本等をいただく。翌日午後には野菜が来るとの事。塩釜ともしびチャペルに戻り、夕食をとる。
19:30 打ち合わせ。平島先生ご一家と交わりの時、インコも加わり和むひと時。
男性陣は聖光会館(保守バプテスト塩釜教会)に宿泊。
19:50 晩祷 司会・新川代利子師 祈り・吉田、齋藤、湯澤。
4月26日(火)
6:30 早天・新川代利子師 アパルームより・Ⅱコリ3:5~9
7:00 昼のおにぎり作り、テーブルセッティング、男性陣到着、朝食
8:30~ 水を取りに仙台愛の教会(韓国 安先生)に行く。
駐車場に500mlボトル24個入りパックが山のように積まれていた。献品先に報告のため、用意されていた被災地応援の横断幕を前にして皆で写真を撮った。
10:00 水を聖光会館に届けた後、男性陣は石巻にある専修大学のボランティアセンターに行き、
そこから遣わされて壊れた家屋の家具運びを一日した。
女性陣はバプテスト塩釜教会の山田牧師婦人・教会の婦人たちと一緒に塩竈ガス体育館で衣類の仕分け作業。新品も古着も男女別、年齢別、サイズ別に区分し段ボール箱に入れ内容を表示した紙を張る。比較的早く仕事が終わった。見ていた役所の方々が、作業が速いと言っていた。役所の人も、被災者なのだ。
毎日ここにいて作業している方々は疲れているだろう。外からやって来て少し
の間仕事をする私達とは違う。大変なことだと思う。15:50に作業を終える。 此処も避難所になっていたが、28日迄。行く先が無いと言っている方がいる。
16:30 自衛隊の野外テント風呂に行く。多賀城駅の横広場に沖縄の自衛隊による、
男女別の野外テント風呂が設営されていた。手前に畳を敷いた休憩所があり、 風呂上りにはコップに水をサービスしてくれる。次のテントにはストーブが真ん中に置かれ、脱衣所になっている。その奥に3帖を縦に二つ繋げた位のたっぷり水をはったプールのような湯船が真ん中にあり、その周囲には座り椅子の上にヘアーシャンプーとボディーシャンプーが入った桶が置かれていた。三つに分かれたテントはモーセ時代の幕屋のようだ。女湯には女性の自衛隊員が一人、使い方の説明と指導をしていた。たっぷりのお湯、自衛隊員のてきぱきとした指導、沖縄民謡のBGM、被災地にあってのほっとした時だった。地元の人たちは尚更、喜んだことだろう。外にもテーブルと椅子を置いた休憩場所があった。テーブルの上にはドライヤーまで用意されていた。休憩場所に張られた地元の人への求人案内が印象的だった。
帰りは、港の近くまで行き、津波の後の状態を垣間見た。漁船や遊覧船が、道路近くまで、又道路の反対側まで押し上げられていた。水に浸かった地域は一階部分が使えず営業している店は無い。生活の様子が見えない。
4月27日(水)
6:30 早天・吉田由架子師 アパルーム ホセア書11:1~11
7:00 食事準備・食事
8:00 七ヶ浜区民センターへ。ボランティア登録。男性陣は七ヶ浜で、家屋の塀の撤去作業。
女性陣はフリーマーケットの手伝い。フリーマーケットと言っても地域の方々への生活用品の配給。時間は13:00~15:00。昨日は規制をしなかったため皆が同時に押し寄せ、大混乱だったとか。時間があったので車で近くの様子を見に行く。センターは小高い丘の上にあるが、少し降りた田圃まで家や車が流されて来ていた。海は遥か向こうのほうに見える。地域福祉課の木村さんの指導のもと準備が始まる。ここには地元の若い人たちや大学生のボランティアが大勢奉仕をしていた。昼食どき、喜多方出身の歌手‘メティス’さんが来て‘母賛歌’を披露してくれた。喜多方ラーメンもふるまわれた。
13:00~15:00 フリーマーケット手伝い。
靴の配給を担当したが、サイズがなかった人もいた。これしか靴が無いと、ぼろぼろの靴を履いた女の子を連れて来たお母さんがいた。
99の背番号の入った長島のサイン入りの靴を持って帰った。カラフルな子供用の靴は無い。しかし、ちょうど良いサイズの靴があって、喜ぶ人たちもいた。
「家が無くなって親戚の家にいるの。」と普通に会話している若いお母さんたちが心にとまった。一緒に靴を渡す係だった一人の若い男性は、すぐ近くの家だと言っていた。
マーケットが終わり、明日の打ち合わせもされていたが、明日も来ますと言えないのが口惜しかった。
16:30 教会に戻り、自衛隊のテント風呂にいく。
20:46 祈祷会 平島望師 ローマの信徒への手紙4:1~8
「頑張ろう・頑張ろうと思う。本音は もう頑張れない。やればやる程、届かない現実がある。出来ないところばかりが目に付く。頑張りきれない。頑張るのではなく、主によって復活させていただく。
『アブラハムは信じた。義と認められた。』まず、神から愛されている。恵みを頂くことが始め、そして、それでこそ、自分の力以上のことが出来る。
3月11日、12日 電気が来ない。ろうそくの灯りが真っ暗な中で光る。
この暖かさがある。そこから始まる。水が出る。灯りがつく。
一つ一つに感謝する。それが恵み。この上に立っている。食物にしても与えられたもの。恵によって生きる、生かされている。頑張る前に恵がある。恵があるから頑張れる。
いつになったら戻るのか。もう戻れない瓦礫の中にある。
でも恵がある。その恵みを手渡すことが我々の仕事。それだけが出来ること。
明日、明後日と、今の感謝をどのようにして届けるのか。」
祈り:山田師、新川師
4月28日(木)
6:30 早天 湯澤鈴世 ローマ書8:18~25、ペトロⅠ1:3~9
8:10 今日はリサーチ。松島、牡鹿半島を回り、そしてまた引き返してくる予定だ。
松島町・鳴瀬・陸前大塚・奥松島・大高森・石巻へ。途中、道路に亀裂が入ったり、田んぼに水が入り、流されてきた物が散乱し手が付いていないような所もあった。道の両脇、住宅の前には壊れた家具,濡れた布団などが瓦礫と一緒に積み上げられていた。持って行く場所が無いのか。石巻市民病院の周りは一面瓦礫。遺体を捜しているのか、赤い布をつけた棒を持って歩く自衛隊の人たちが見えた。広い石巻漁港はとても無残で、海産物工場のような建物が軒並み壊されていた。
七十七銀行近くで炊き出しの場所提供を中村師が交渉、予約した。この近くは大潮時に道路が水に浸かるという。
家にぶつかった乗用車が逆さではまり込んでいる。両脇に住宅がある狭い道に入ると、今にも家が崩れてきそうだった。家を片付けている人たちの姿も見かけられる。
萩浜地区を通る。トイレを借りた「石巻市牡鹿総合支所・大原出張所」は小高い場所にあったが、床上まで水に浸かり、事務所の中は泥だらけだった。すぐ上の大原小学校では、靴屋さんが子供たちに、靴を配っていた。新川師が大原小学校の子供へ福岡エルシオン教会の教会学校の生徒からの手紙とオモチャ、チョコパイを届けた。給分浜救援対策本部と書かれた所に、物資を届けた。ここでは炊き出しもしているので、米や野菜、油を喜んでくれた。
関係者立ち入り禁止と書かれた女川原子力発電所の看板を右に見て、私達は女川町へ向かった。壊滅した女川町には小高い丘の上に、町で唯一津波からまもられた女川町立病院がある。当時は病院への坂を上り、非難したのだろう。(海抜20m)病院から町を見下ろす。こんな高い所まで津波が来るとは。想像すらできない。駐車場には今も壊れた自動車が数台あった。
渡波地区・この辺は海岸線が迫り、「冠水に注意」の看板が張られている。
帰りの道で電気の来ていない地区の信号機が動かず、渋滞にはまる。予定を大幅に遅れ、今日帰る4名は、午後7時半を回った頃、山田神学生の運転するボクシーで東京に向かった。
感想とこれから
ボランティアに行ったのは震災(3月11日)からひと月半後、そして更にひと月半が経っている。状況は変化し、ニーズも変わってきている。今は、被災者の原体験を聞くことがより必要だと思う。
唯、被災地に行けたことは、自分にとって忘れることの出来ない体験となった。帰ってから、何度もPCで震災の映像を見ていた。自分が見てきたこと、震災の事実を忘れないように。でも、被災された方々とはけして同じにはなれないことも感じている。
◎膨大な片付けものを目の前に突きつけられたと感じた。
◎ひと月半も経っているのにまだこの状態なのか、とはじめは思ったがやっとここまで片付けて、今走っ て
いる道路があるのだと気付いた。
◎リサーチの大切さを知った。福音を伝えることも同じだと思う。
◎地元の人たちの大変さと共に、センターで奉仕する若い人たちを見て頼もしさを 感じた。
◎このようなボランティアは初めてだったので、地元の人に失礼なことがなかったか。
◎復興はまず、地元の人々・出身の人々(若者たち)が中心になって行くことが重要。復興に携わることが
生活の糧につながり、生きることと復興が一つになるとよいとおもう。それが実現できるように応援してい
くのが私達の今後の課題だと思う。
◎自らの足りなさを感じている。そして、またボランティアに参加したいと思っている。
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Ethan (日曜日, 22 7月 2012 11:45)
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